火山・噴火の歴史:富士山

富士山は、日本の中央部、静岡県と山梨県の県境付近に位置する成層火山です。山頂は標高3,776mと、日本で最も高い山となっています。円錐形の美しい姿は、日本を代表する名山として広く知られています。山体は比高約3,300mの規模を持ち、円錐形の山容を示す理想的な成層火山の形状をしています。

地質構造

富士山は典型的な成層火山で、美しい円錐形の山容を持っています。現在の富士山の山体は、長い歴史を経て4段階の火山活動によって形作られたと考えられています。

最も古い時代の火山活動は「先小御岳火山」と呼ばれ、数十万年前の更新世に形成されました。その後に「小御岳火山」、さらに約8万年前から1万5千年前にかけて活動した「古富士火山」が現れ、標高3000mほどまで成長しました。

最新の火山活動である「新富士火山」は、約1万年前から活発な噴火を繰り返し、現在の美しい円錐形の山容を作り上げました。近年でも火山活動の兆候が確認されており、富士山はいまだ活火山として監視が続けられています。

富士山のマグマは、フィリピン海プレートの沈み込みに伴って供給されていると考えられています。側火山が多いこと、玄武岩質のマグマを多く噴出することなど、火山としての特徴も確認されています。

富士山の噴火の歴史

富士山では、溶岩流、火砕流、スコリア、火山灰、山体崩壊、側火山の噴火など、様々な火山現象が発生してきました。そのため、富士山の噴火は「噴火のデパート」と呼ばれています。

山頂噴火と山腹噴火

富士山の噴火は、大きく分けると山頂噴火と山腹割れ目噴火の2種類があります。山頂噴火は爆発的な噴火が特徴的で、一方の山腹割れ目噴火は溶岩流を噴出させる活動です。

富士宮期の大規模噴火

新富士火山の活動が始まった紀元前1万5千年頃からの富士宮期には、断続的に大量の玄武岩質溶岩が噴出しました。この溶岩は流動性が高く、遠方まで流れ広範囲を覆いました。南側に流下した溶岩は駿河湾にまで達しています。

大規模な火山現象

富士山の噴火に伴っては、岩屑なだれや山体崩壊、火山泥流なども発生してきました。紀元前9,700年頃の三島溶岩流、紀元前6,000年頃の馬伏川岩屑なだれなどが知られています。

噴火様式の変化

新富士火山の活動は時期によって噴火様式が変化しました。紀元前1,500年頃までは山頂・山腹からの溶岩流出が主体でしたが、その後は山頂山腹での爆発的噴火に移行しています。

富士山の主な噴火略年表

  • 約3000年前: 縄文時代後期に4回の爆発的噴火を起こす(仙石スコリア、大沢スコリア、大室スコリア、砂沢スコリア)
  • 約2900年前: 東斜面で大規模な山体崩壊が発生、岩屑なだれと泥流が発生
  • 482年頃: 噴火か
  • 781年: 噴火
  • 800年〜802年: 延暦大噴火
  • 864年〜866年: 貞観大噴火が発生、青木ヶ原溶岩を形成
  • 937年: 噴火が御舟湖を埋没、剣丸尾第1溶岩を噴出
  • 999年: 噴火
  • 1015年頃: 北麓と南麓で同時噴火か
  • 1033年初頭: 噴火
  • 1083年: 噴火
  • 1435年または1436年初頭: 噴火
  • 1511年: 噴火
  • 1707年12月16日: 宝永大噴火が発生、火山灰が江戸にも降る
  • 1854年: 安政東海地震後に異様な黒雲と火が確認される
  • 1923年: 新たな噴気確認
  • 2012年2月: 3合目付近で微小な噴気確認

有名な富士山の噴火

貞観大噴火(864年)

概要

  • 発生年:864年(貞観6年)6月〜866年初頭まで
  • 噴火の規模:プリニー式噴火(火山爆発指数VEI5程度)
  • 主な噴出物:青木ヶ原溶岩(玄武岩質)、火山灰、スコリア
  • 主な被害:溶岩流が富士北麓の剗の海(富士五湖の一部)を埋没

噴火の経緯

864年5月25日に富士郡から富士山の噴火報告がされ、大きな火災と地震が発生していることが記録されています。6月以降、本格的な噴火活動に入り、山腹から大量の溶岩が噴出しました。

この溶岩は富士北西側の長尾山付近から流出した「青木ヶ原溶岩」と呼ばれるもので、延長30kmにも達する大規模な溶岩流となりました。この溶岩流は富士北麓にあった「剗の海」と呼ばれる広大な湖を埋め立ててしまいました。

7月17日の記録によると、溶岩流の勢いが衰えた後も、大量の火山灰や火山礫が放出され、周辺に大きな被害をもたらしたことがわかります。

噴火の規模と特徴

貞観大噴火は、出された噴出物の量から火山爆発指数(VEI)5程度の大規模な噴火と考えられています。また、この噴火は山腹割れ目から溶岩が大量に噴出する溶岩プリニー式噴火と考えられています。

噴出物の化学分析から、マグマが地下のマグマ溜まりで一定期間滞留して脱ガスを経た後に噴出したことが分かっており、その過程が溶岩噴火を引き起こしたと推定されています。

貞観大噴火は、富士山の主な大規模噴火の中でも有力なものであり、富士山の活動史を知る上で重要な出来事とされています。

宝永大噴火(1707年)

概要

  • 発生年: 1707年(宝永4年)12月16日
  • 噴火の規模: プリニー式噴火(火山爆発指数VEI5)
  • 主な噴出物: 火山灰、スコリア
  • 主な被害: 富士山周辺に大量の火山灰が降り積もり、江戸(東京)まで火山灰が到達

噴火に至る経緯

1707年10月28日に発生した宝永地震(M8.6)は、富士山周辺でも大きな被害をもたらしました。この地震から約1.5か月後の12月16日未明、富士山頂から突如として噴火が始まりました。

噴火の経過と被害

午前3時頃に始まった噴火は、一旦小康状態を経た後、正午過ぎにさらに大規模な噴火が発生しました。この時の噴煙柱は推定で高さ15km以上に達し、大量のスコリアと火山灰が放出されました。

噴火の規模と特徴

宝永大噴火は、放出された火山灰の量や分布範囲から、VEI5(非常に大きな規模)と評価されています。この噴火は典型的なプリニー式噴火で、マグマが急速に上昇したために発泡・膨張が抑えられ、大規模な噴火に至ったと考えられています。

火山灰の堆積は富士山頂で3mを超え、富士宮市では0.4mに達したと記録されています。火山灰は東風に乗って遠方まで運ばれ、甲府盆地を超えて江戸にまで到達しました。さらに、噴火に伴う地震や雷、土石流なども発生し、富士山周辺では家屋の損壊や田畑の埋没など甚大な被害が出ました。

富士山周辺での被害

噴火に伴う地震と火山灰の積もりにより、富士山周辺の町村での家屋の倒壊被害が広範囲で発生しました。特に噴火当日の正午過ぎの大噴火時には、富士宮市周辺で最大震度6強の激しい揺れがあり、多くの家屋が全壊や半壊に至りました。富士山に近い地域ほど被害は甚大でした。

さらに、大量の火山灰が山腹を流れ下り、土石流が発生しました。火山灰に水が混じることで泥流となり、家屋や田畑を押し流す被害がたびたび起こりました。特に富士北西麓の富士町には大規模な土石流が発生し、家々が流される惨事となりました。

同時に、降下した火山灰が川や湖沼を汚染し、上水の確保が困難になりました。富士北麓の河川は火山灰で濁り、飲料水の確保に苦労しました。井戸水も汚染された地域があり、水不足が深刻な問題となりました。

農地の被害も甚大でした。火山灰の降下と土石流で、富士山周辺の農地が広範囲で埋没してしまいました。当時の記録では、田畑が完全に火山灰で埋まり、収穫できなくなった農家が多数あったことがわかります。一部の地域では農業の営みが長期間にわたって困難となりました。

また、火山灰の堆積により、道路が埋まり、富士山周辺の交通網が寸断されました。当時の主要な交通網だった東海道は一時的に通行困難となり、物資の運搬に支障をきたしました。堆積した火山灰の除去に時間がかかり、復旧作業が大変でした。

宝永大噴火は富士山周辺に生活する人々に、家屋の損壊、農地の埋没、道路の遮断、水資源の汚染など、甚大な被害をもたらしました。

江戸への降灰と影響

宝永大噴火では、富士山から放出された大量の火山灰が東風に乗り、遠く江戸(東京)まで到達しました。当時の文書には最大で5〜10cm積もったとあります(もうすこし少なかったという説もあります)。また、降灰により、日中でも暗くなり、行燈を灯す必要がありました。さらに、火山灰が強風で舞い上がり、目の痛みを訴える人や、呼吸器系の病気にかかる人が多数出たと言われています。

生活環境への影響も深刻でした。屋根や井戸、川などに火山灰が堆積し、生活用水の確保が困難になります。野菜や作物が火山灰で被覆され、食料が不足しました。家屋の中に火山灰が入り込んだり、灯りや火打ち石がうまく機能しなくなったこともあったようです。また、火山灰のために道路が埋まって物資の輸送に支障が出たり、火山灰除去作業に多大な労力を要するなど、社会的にも大きな影響が出ました。

新井白石による降灰の記録

当時江戸に住んでいた儒者の新井白石は、この降灰の様子を詳しく記録しています。噴火当日の昼前から、南西の空に黒い雲が広がり、江戸の上空からは雪のように白い火山灰が降り注ぎました。最初は白っぽい火山灰が降りましたが、夕方からは黒い火山灰に変わったことが確認されています。この火山灰の降下により、江戸の町は昼間から暗くなり、灯りを灯さねばならない状況になりました。新井の記録は江戸への影響の大きさが分かるだけでなく、噴火の経過でも重要な情報が含まれています。

富士山体への影響

この噴火では新しい火口(宝永火口)が生まれ、現在の富士山山頂部の地形を作り出しました。

富士山の大規模噴火と地震の関係

富士山の大規模な噴火の前後には規模の大きい地震が発生することが見られ、両者は影響しあっていることが多くの研究で指摘されています。

貞観大噴火(864年)と貞観地震(869年)

864年(貞観6年)に富士山で貞観大噴火が起きたあと、5年後の869年(貞観11年)7月9日には三陸沖を震源地として貞観地震がおきました。貞観地震の起きた海域は、2011年3月11日の東日本大震災と同じ東北地方太平洋沿岸の沖合いに位置します。当時の陸奥国には津波が襲来し、仙台平野は海岸線から3〜4kmに渡って水没し、1,000人が溺死したと言われています。

宝永大噴火(1707年)と宝永地震(1707年)

1707年(宝永4年)12月6日の宝永大噴火に先立つ約1.5ヶ月前、10月28日に、東海道沖から南海道沖を震源域として、宝永地震と呼ばれる巨大な地震が発生しました。宝永地震は南海トラフ海域で発生した、記録に残る日本最大級の地震とされています。

安政東海地震(1854年)と富士山に起きた現象

1854年(嘉永7年)12月23日には、南海トラフ沿い東海道沖を震源域とする安政東海地震が起きました。当時この地震は「寅の大変」とも呼ばれました。富士山に大規模な噴火は起きませんでしたが、火山活動を示唆する現象が記録されています。安政東海地震が発生した際に、ほぼ同時に富士山の頂上には黒い笠雲が現れ、同じ日には牛ほどの大きさの羽を持つ物体が舞い、八合目付近では多くの火が目撃されました。17日後の11月21日頃には、宝永山から真っ黒な煙が立ち上るのが目撃されています。さらに、その冬の富士山の積雪は少なかったという記録が残されています。

南海トラフ巨大地震と富士山噴火

このように、大規模な地震と噴火が違いを誘発する可能性について指摘されております。現在のところ、地震と噴火の直接的な因果関係は必ずしも明らかでありません。しかし、近年中に起きると言われている南海トラフの巨大地震が、富士山の300年ぶりの大噴火を引き起こす可能性について懸念されています。実際に江戸時代には、宝永地震の直後に宝永大噴火が起きたた事例があります。富士山は宝永大噴火を最後に300年間噴火していません。そのため、今度の大噴火時には、これまで以上の規模の災害になる可能性が指摘されています。

参考文献・参考サイト

富士山の噴火情報・ハザードマップなど

※その他の市町村のハザードマップは各自治体のHPにてご確認下さい。